風船おじさん「ファンタジー号」事件
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事件概要
1992年、風船をつけたゴンドラに乗った通称「ふうせんおじさん」と呼ばれる中年男性が、旅だったまま帰ってこなくなったという事件。
あれから20年以上経過した現在でも、行方について語られることがある。
出発
1992年11月23日、当時52歳だった鈴木は、ヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」の試験飛行を琵琶湖畔で行うとした。
試験飛行の場には、電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー『おはよう!ナイスデイ』取材班、そして鈴木の支持者らが集まった。
この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだった。
120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃、「行ってきます」と言ってファンタジー号を係留していたロープをはずした。「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎のびんを地上に落とし周囲の制止を振り切って、アメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した。
飛び立った直後にテレビ局が鈴木に携帯電話で連絡すると「ヘリウムが少し漏れているが、大丈夫だ」との回答を得た。
翌朝6時に「スバラシイ朝焼けだ! きれいだよ」と妻に伝え、その次の「行けるところまで、行くから心配しないでネ!」が最後の電話になった。以後、携帯電話は不通となった。
SOS信号
24日深夜からSOS信号が発信され、25日の8時半に海上保安庁の捜索機ファルコン900が宮城県金華山沖の東約800km海上で飛行中のファンタジー号を確認した。しかし鈴木は捜索機に向かって手を振ったり座りこんだりして、SOS信号をやめた。
約3時間の監視したが、手を振っていたこと、ゴンドラの中のものを落下させて高度を上げたこと、遭難信号も消えたために飛行継続の意思があると判断して11時半に捜索機は追跡を打ち切った。
以後、SOS信号は確認されておらず、家族から捜索願が出されたことを受け、12月2日に海上保安庁はファンタジー号が到着する可能性のあるアメリカ合衆国とカナダとロシアに救難要請を出した。
消息
鈴木の計算では、ファンタジー号は、高度1万メートルに達すれば、ジェット気流に乗って、40時間でアメリカに到着するはずだった。
当時の気象大学校の教頭である池田学は『朝日新聞』の取材に対し、「生存は難しいだろう」と答えている。
2年に1度の捜索願を家族が更新しており、鈴木は戸籍上は生きていることになっているという。
遺体がアラスカで発見されたというニュースがネット上に存在しているが、事実無根のデマだった。
目的
冒険の動機は、同志社大学教授の三輪茂雄の鳴き砂保護に賛同して、鳴き砂保護を訴えるためだったと言われる。鳴き砂の海岸がある島根県邇摩郡仁摩町(現大田市)の町長に2度の接触を持ち、経済援助を要請していた。
人物
鈴木 嘉和(すずき よしかず 1940年 -)は、風船おじさんとして知られたピアノ調律師、経営者。自称冒険者。
ファンタジー号
直径6mの主力となるビニール風船を4個、直径3mの補助風船を若干個装備、ゴンドラの外形寸法は約2m四方・深さ約1mで、海上に着水した時の事を考慮し、浮力の高い檜を使用していた。
ゴンドラ製作を依頼されたのは桶職人で、桶造りでは東京江戸川区の名人と言われる人物ではあるが、飛行船のゴンドラは専門でない。風船のガスが徐々に抜けて浮力が落ちるため、飛行時に徐々に捨て機体の浮上を安定させる重り(バラスト)を用意していた。重りの中身は、厳寒でも凍らない焼酎を使用していた。
積載物は、酸素ボンベとマスク、1週間分の食料、緯度経度測定器、高度計、速度計、海難救助信号機、パラシュート、レーダー反射板、携帯電話、地図、成層圏の零下60度以下の気温に耐える為の防寒服、ヘルメットに紫外線防止サングラス等であった。
また、テレビカメラと無線緊急発信装置も搭載されていた。