世界文化遺産に登録される見通しの「軍艦島」の愛称で知られる長崎県端島炭鉱。
最盛期の1960年には狭い島内に5267人もの人口が暮らしていて、当時の東京の9倍という脅威の人口密度でした。島内には学校や病院の他にもお寺や映画館、パチンコ店やスナックまであり、物資や水道などのインフラを本土に依存している以外は島内で完結した都市機能を備えていました。炭鉱労働者の所得は高く、当時日本全体で10%だったカラーテレビの所有率は、島内では100%だったそうです。
まさに未来に生きていた軍艦島の人々、その暮らしぶりを軍艦島資料館に所蔵されている写真で振り返ってみましょう。
学校や団地の屋上は子どもたちの貴重な遊び場となっていたようです。
親子三世代が暮らす世帯もあったようですね。後ろにはみずみずしい野菜が並んでいます。
炭鉱で働き、お風呂に入ってから家族の待つ団地へ帰っていくという生活をしていたようです。島内の書店には漫画本も並んでいるみたいですね。新聞は毎日届いていたそうです。
お祭りもありました。左手に写っているのが島内の最高権力者だった炭鉱長の家だそうです。
団地に囲まれた居住区とトタン屋根の炭鉱区がきっちり分かれています。
昭和の高度成長期は働くお父さんたちに支えられていたんですね。
参考:軍艦島資料館